日常の何かの切っ掛けで「旅」へ出かけたい衝動に駆られることがある・人の世で
生きて束縛を纏うのは仕方ないがしばらく単調な生活が続くと「今」から抜け出し
たい衝動が抑えられない。
「旅」に駆り立てられる感情は時空を拡げたい願望と時間への挑戦・・
人間に潜在する動物的好奇心の顕れ・・かも知れない、
情報が撒き散らされて世間を同じ方向の思考で収束しようとしている時代にあって
「旅」をすることが個性の体現とすれば細い道になっている。
「情報」の仕掛けに翻弄された旅行。「情報」で確かめた「情報」の確認のために「旅行」に出かける。「情報」でもたらされた列車、飛行機のダイヤに縛られながら時間刻みで「旅行」の時間を過ごす。「旅」の持つ時空の移動とは少し違う「情報」と情報との間を渡り歩く「旅行」という情報確認の過程に身を置き時間を費やす。人々は確かな体験事実としてお土産を手に入れ撮りまくったデジタルで「旅行」の目的を果たしたと考え計画の目的は完遂されたと思う。「旅行」をしたことに間違いはない、が・・?
オデッサからヤルタへは夜行列車とバスを乗り継ぎ入る。気候の良いヤルタは著名人や実業家の別荘も多く第二次世界大戦では政治の大舞台にもなった。ロシアで唯一黒海から外洋へ続くロシア軍港セバストポリへも近い。ホテルに着いた時間が早くチェックインまで時間潰しに海側を歩いていると海を背景に写真を撮っていた二人連れが私にシャッターを切ってくれと頼みに来た。古いカメラで自信がないまま渡すと何処から来たと聞く、姉妹らしい二人はすぐ近くから来たようにベラルーシからと云う。その頃、旧ソ連連邦を旅していたが地域の不安内から不安に晒されることが多くユーゴスラビア、ルーマニアなど暴利や官憲の脅しに苦労していた。ネット未発達の時代でベラルーシやモルドバへはトラウマがあって行っていない。二人を撮った写真に自信がなかったので私のカメラで再度撮った、姉の方はミンスクの大学にいるというので思い付きでいつか訪ねたいと言って別れた。10月ロシアを訪ねた後ベラルーシを訪ねることにした。当てにはしなかったが写真をメールで送ったあと訪ねる日と列車だけ知らせた。モスクワから列車に乗りサンクトペテルブルグからは船やバスなど強行日程が続き疲れていた。ホテルの予約のない日は余計に疲れた。ミンスクを訪ねる日は雨でリトニアのビリュニスから午前中の国際列車に乗る。当時はThomas Cook時刻表の列車ダイヤだけが頼りで比較的正確だったが注意書きの読み落としや運行の変更などで1日くらい不意になることは度々ある。列車は夕暮れにミンスクに入った。旧ソ連圏の公共施設は撮禁で密告に会うと警察で執拗に時間を潰される。カメラを回さなかったのはトラブルを避けていたかも知れない。出迎えの人で混み合う長いプラットフォームは冷たい雨が降っていた。出口への方向も分からず人の群れについて濡れているうちにメールのことは忘れかけていた。薄暗いフォームの奥に駅の建物が見えたがホテルの方角もタクシーの様子も分からない、終着で降りる乗客に群がる群衆の中には不慣れな様子の客を狙って付け回して来る奴が必ずいる。不安はあったがタクシーに乗ることを決めて人々の中を出口の方角へ向かった。プラットフォームに重なる人陰の中からサクライ と声が聞こえたような気がする、空耳・、空耳の方向を振り向くと人の群れの上で傘だけが高く上下に振られている、今度は傘の下からはっきり「ミスターサクライ 」と呼ぶ声が聞こえた。
ウクライナへは国境を歩いて通ることが多い。夜間は列車を利用することになるが便数も少なく昼は鉄網で覆われたアウシュヴィッツの様な光景をカートを引いてポツリポツリ歩くことになる。国境は案内もなく人々が歩く方向について行くとバスの発着場らしいところに辿り着く。ポーランド側からはプシミシェエル駅近くからバスで30分くらい、ウクライ側からはリヴィウ駅前から4時間ほどで検問所につく、国境までは途中下車する地元の住人が多く会話もないまま寂れた風景を走ることになるがある日、発車直前のエンジンが始動してから二人の女性が飛び込んで来て私の並びに座った。キエフから来たらしく土地に不安内だったので所要時間など話すうちに若い人らしい会話で日本の話題など聞かれ異郷もあって和やかな空気で国境についた。一緒に歩いて渡ったがポーランド側に来て国境警備隊員が入って来てウクライナとポーランド国籍の人たちが通過点で鉄柵に止められ国境を通過できなくなった、抜き打ちの所持品再審査らしく私は急ぐこともなかったが警備隊員に強引に押し出されてしまった。さよならの挨拶も出来ないままで鉄枠の外に出され振り返ると二人が鉄柵の一番前まで出てきて手振っていた。カメラはご法度だったが背中を小突かれながら彼女たちの方に向き直って手を振りカメラを回すと二人は周囲に構わずVサインで手を振り返した。